吉原今昔物語 吉原の歴史を知ろう

    吉原遊女になった女たちは、遊女勤めが終わるまで(「苦海十年」と呼ばれ、十八歳から二十七歳くらいまでの吉原で遊女として商売できる期間)大門から一歩も出る ことは許されなかった。遊女が苦海から抜け出る方法は三つしかなかった。
    一つは. 年季奉公を勤め上げた、いわゆる「年明き」で遊女から足を洗う場合。
    二つ目は、金のある客に見初められて「身請け」される場合。
    三つ目が死んだ場合。
    吉原の年明きは二十八歳なので、この年になった遊女は見世から暇を出される。中には遣手として見世に残る遊女もいたが、多くは吉原の外を望んだ。吉原を出た遊女は、 年明きになったら一緒になろうと約束していた男と所帯を持ったり、そのまま吉原以外の色里・岡場所に行く女もいた。 客に身請けされるのが遊女の幸せといわれるが、なかなかそんな客は現れない。特に太夫クラスの上級遊女になれば、身請け金は膨大な額だったのである。もともとの 身代金に加え、これから働いて稼ぐであろう金額、これまでの借金、見世や周囲の人間に出す祝い金など、合計すると何百両にもなる。このような大金をぽんと出すのは、 大名や大商人以外は不可能である。中級あたりの遊女でも、やはり百両前後はかかったという。死ぬほど辛い苦海・吉原では、実際に死んだ遊女の数は知れない。

    遊女にも位があり、宝暦2年(1752年)以前には、江戸・吉原にも太夫と言う位があり最高位だった。宝暦2年、太夫職が事実上無くなり、その代わりとして「花魁」と言う位が 生まれた。従って、吉原で「太夫」と「花魁」が同時に存在したことは無いという事になる。この太夫が無くなった理由は、遊郭利用者の懐事情と、客を袖に出来るという高級 遊女の「しきたり」とされる。又、京都・島原には花魁は無く、太夫が最高位である。

    花魁の中でも上下があって、「張り見世(はりみせ)」と、「呼び出し」がある。「張り見世」と言うのは、朱塗りの格子の中でお客を待つ事をいう。一方、「呼び出し」と言うのは、 二階の自分の座敷で呼び出しを待つ事をいう。この、呼び出し花魁になると禿や新造を従えた格になる。呼び出し花魁は、吉原の遊女3,000人と言われるが、 その中で4人位だった



    (花魁誕生以前)上位から
  • 太夫
    最高級の遊女。太夫は吉原の看板であるため、みっともない格好はできなかった。教養も必要であり、専属の使用人も雇わねばならず、 とにかく金がかかる。
  • 格子
    格子のある見世に並んでいる遊女で「格子女郎」とも呼ばれる。
  • 小見世以下の遊女たちの総称である。江戸市中で取り締まられ吉原送りになった湯女や遊女が増えてくると、 端女郎は「局」「端」「切見世」に細分化され、元吉原末期には都合五ランクに分かれた。
    さらにの下には禿(かむろ)という10歳前後のの見習いや新造がいた。
  • 禿
    花魁の身の回りの雑用をする10歳前後の少女。彼女達の教育は姉貴分に当たる遊女が行った。 禿(はげ)と書くのは毛が生えそろわない少女であることからの当て字である
  • 番頭新造
    量が悪く遊女として売り出せない者や、年季を勤め上げた遊女が務め、マネージャー的な役割を担った。花魁につく。 ひそかに客を取ることもあった。「新造」とは武家や町人の妻を指す言葉であったが、後に未婚の女性も指すようになった。
  • 振袖新造
    15-16歳の遊女見習い。禿はこの年頃になると姉貴分の遊女の働きかけで振袖新造になる。 多忙な花魁の名代として客のもとに呼ばれても床入りはしない。しかし、稀にはひそかに客を取るものもいた。 その代金は「つきだし」(花魁としてデビューし、水揚げを迎える日)の際の費用の足しとされた。 振袖新造となるものは格の高い花魁となる将来が約束されたものである。
  • 留袖新造
    振袖新造とほぼ同年代であるが、禿から上級遊女になれない妓、10代で吉原に売られ禿の時代を経なかった妓がなる。 振袖新造は客を取らないが、留袖新造は客を取る。しかし、まだ一人立ちできる身分でないので花魁につき、世話を受けている。
  • 太鼓新造
    遊女でありながら人気がなく、しかし芸はたつので主に宴会での芸の披露を担当した。後の吉原芸者の前身のひとつ