吉原今昔物語 吉原の歴史を知ろう

  • 吉原とは、江戸時代に江戸郊外に作られた、公許の遊女屋が集まる遊廓およびその地域の名。現在の東京都台東区千束四丁目、および三丁目の一部にあり、現在は 日本一のソープランド街として知られている。
    江戸幕府開設間もない1617年、日本橋葺屋町(現在の日本橋人形町)に遊廓が許可され、 幕府公認の吉原遊廓が誕生した。「吉原」の語源は遊廓の開拓者・庄司甚内の出身地が東海道の 宿場・吉原宿出身であったためという説と、葦の生い茂る低湿地を開拓して築かれたためという説が ある(葦=悪しに通じるのを忌んで、吉と付けた)。 明暦の大火(1657年)で日本橋の吉原遊廓が焼失。幕府開設の頃とは比較にならないほど周囲の 市街化が進んでいたことから、浅草田圃に移転を命じられた。 (現在の吉原)以前の日本橋の方を元吉原、浅草の方は正式には新吉原(略して吉原)と呼ぶ。 移転してからもしばしば大火に見舞われ、主な大火は1768年、1787年、1816年、1835年、1845年、 1862年、1864年、1866年である。 吉原が再建されるまでの間、浅草周辺などに仮宅が設けられることがあった。

    明治以降、芸娼妓解放令が出され、1875年には遊女屋は「貸座敷」と名を変えたが、 実態は江戸時代と同様、旧態依然の状態であった。明治の吉原風俗は『ヰタ・セクスアリス』 (森鴎外)や『たけくらべ』(樋口一葉)といった作品からも窺える。 特に一葉は吉原近くの竜泉に小間物屋を構えるなど当地との縁が深い。1903年には、写真指名シス テムがはじまり(「写真見世」)、1916年には、張店が禁止された。 近代以降も1911年4月9日に大火が発生したり、関東大震災、東京大空襲でもほぼ全焼し、 多くの犠牲者を出したが、そのたびに不死鳥の如く復活した。第二次世界大戦後、GHQの指令により 公娼廃止となり、営業形態も民主化され、特殊飲食店街、いわゆる赤線となった。

    1958年の売春防止法の施行により、赤線は廃止され、店は連れ込み旅館や下宿屋、 トルコ風呂(1951年に登場、1983年から「ソープランド」の呼称)などに転業していったが、 やがてトルコ風呂が全盛期を迎えると、吉原=トルコのイメージが定着していった。 トルコ風呂は1966年の風営法改正により、個室付き特殊浴場となり、現在に至る。